昭和41年12月15日 夜の御理解
今日ここで、夜に参り合わせた方達が、色々信心を頂いて居ることの、有難さを話し合っております。その中に、福岡の渡辺先生が、この椛目、こうして、向こうてこらせて頂きます。朝参りをさせて貰うと、丁度あの二日市辺りで、丁度朝日の登るのを見るて言うんですね。ですから、あれからこう、あそこが椛目のお広前だと思うて、電車の中から遥拝させて貰う。そしてその朝日の何とも言えん雰囲気の中で、その事が有難い、あれを見てもこれを見ても有難い。
誰にでもこう御礼が言いたいようなその気持ちが開けて来ることが、ほんとに有難いと言うてその、云うておられました。それを、野口つぁんも言うております。野口つぁんも最近、今度息子さんの、宮崎での病気の事から、もうほんとに あちら行きのおかげ話、もうほんとに、今度初めてその空気の有難さと云う事が分かりましたと。空気をこうやって、頂いて居ると云う事が、本当にしみじみと有難いち言うて、もうあの二人が、涙を流してから話して居られます、有難いと云うて。
それを側で聞いて居られた久保山先生が言われるんです。そうですなあ、ほんとに有難い。けれども、ほんとにその空気の味わいが分かって有難いと。朝日を見ては有難いと、そのそういう事に有難いと感じれれるようになったことが実は有難いのですよと云う事をです、話して居られます。お互い信心の稽古をさせて頂いてです、一つの物の見方と云った様なものでもです。ほんとにこれを腹立たしく思って居った時代と、その事を有難く受けさせて頂けるようになったと、その事が有難いのですね、やはり。
有難く思えることが有難いんです。けども思えるようになったと云うことが、もっと有難いのです。それが信心になって行きよる証拠なのですからね。ですから、それがもし有難く無かったら、信心がひとっつも進んでいないと云う事になりますよね。例えば、ある人が自動車との追突された。そん時にその相手の方の人を責めるでもなく、ほんとに大難は小難でおかげ頂いたのであるから、そげな賠償、そげなことなんか全然考えない。まあまあ私もこの位で良かったと。
あんたとこの自動車のそで方も、その位で良かったと。ま、お互いおかげじゃったと、こう言えたと致しましょうかね。それがその言えるようになったと、云う事が有難いのですね。その自動車が、おかげを頂いたと云う事よりも。ところがそういう時どうでしょうか。信心しとるけん言いもされんだった。自分が信心しとるから、日頃教えを頂いておるから。その、さぁそれを戻せと、何日か休んだ、休んだつの、その金を、大体取ったっちゃよかけれども、
信心しとりゃそげなことも言われんもんやけんと、云う様なことであったら、信心なかえって邪魔になっとる感じですね。信心しとるけん、そげな無理は言われん。信心しとるけんそげな事言われんと云うのでしたら、信心がかえって窮屈になっとる様な感じが致しますでしょうが。けども、そん時にです、それを言わんで済むおかげを頂いておったら、はあ私も大難は小難におかげを頂いて、あんた方も私で良かったたい、もうほんとにああたんところも、又大してそでとらじゃったから良かった。
いいえ、そげな段なこっちゃありませんと、と例えば、本当に心から言えれる時にです、言えれる様になったとが有難いのですよ。そうでしょうが。だかなね、私は、信心が先程、久保山先生と話したんですけれども、椛目で、もし私が亡くなったら、どの位あの信者さんが残るだろうかと。と言うて話した事ですけれどね。例えば、今私が申します様に、銘々がですね、ここまで育てられておるということが有難いと分からして頂くようになった人達が残るでしょうね。
信心しよるけん、教えば頂きよるけん、もう、言おうごたる。金に報われずに取ろうごたる。けれども、信心しよりゃそげなことは、言われんけん、言わんと云う位のことが有ったらです、そげな人は、必ず椛目の信心から外れていくでしょうね。それを言わんで済むと。その言わんで済むことが、言わんで済むことが有り難いのですね。そこまで、その自分の心が成長しておると云うことが、有り難いと云う信心であったら、もうその信心は外されませんよね。
その信心をいよいよ育てていくことに楽しみを感じることでございましょうから、例えば私がいなくても、ここに私の手代わり取次者がある限り、椛目が有る限り、やはり信心は末の末まで教え伝えて行けれる人でしょう。いいですか、そこんところの信心を、ひとつ、お互いが身に付けておきたいと思うですね。大なり小なりにですね。例えばその空気が美味しいと、ほんとに空気を吸いよるという事がです、こんなにも有難い事かと、そのその事がもう有難くてこたえんと云うことも有難いけれど。
それを分からせて頂いたと云うことが有難いということ。今日も、初めて私、あんなお届けを神様にしましたけれど。北野から、今、あの恵子さんが毎日朝参りちゅうか丁度御祈念が済んだ頃参って来るんです。今年一杯続けたいと。こちらは信心が出来とりませんから、せめてこの一月だけでも朝参りのおかげを頂きたいと云うて毎日参ってくるんです。何時もその色々おかげを頂いて、ほんとにあの自分が教えを頂いていきよると、家ん中がほんとに有難いことになってくるけれども。
ちょっとそれが外れるとですね。もうそれこそ。例えば、姉さんなら、上野さんなら、上野愛子さんです、あちらの愛子さんが、もう、むきになって、それこそ虎んごたる顔して押し掛けてくるち言う訳です。もうそげん時に、はっと思うてから、はっとこうあの合掌して受ける気になると、もう嘘のように、してみると姉さんじゃない、愛子さんじゃない、神様の御都合だと云うことが分かると言うてから、この頃、そこんところに、その足跡が分かって行きよるようです。
( )あの勢いで、こう目ん玉んぎょろぎょろやってやっるなら、やっぱ、ちょいとやっぱ、ほんに、嫌になるぐらいにありますよね。けども、どうせああして、家に帰って来なはった以上はです、やはり、円満に、その行きたいのです。ところが片一方が、あんなやりやりしとるもんですから、こちらが、ちょっと間違うともういかん。ところがこちらが合掌して受ける気になりゃ、もう実に良い姉さんであり、良い愛子さんだと云う事なんです。
今朝なんかは、先生あの大木橋を渡ってくる時に、ちょうど朝日がもうこうてらてらとする時分でございましたが、もう私はもうその自分の(しゅうねというしきに)ですね、見とれてから、あれ程有難いと思うたことは、今日が初めてでしたと言うてから、今日はお届けしよった。はぁ有難い。そういうことが分かってくると、朝参りがです、今度は止められんごとなってくる。
例えば止めとっても、やはり、その有難さにですね、早う朝参りがしたい、朝参りがしたいと云う気持ちが起こって来るんです。もうとても術なか術なか、冷たか冷たかと、言うのじゃなくてですね、自転車で参って来とる。もうその景色にもう冷たさも何もかにも忘れて仕舞うくらいにその有難い。今日はその事ばっかり御礼を言うて帰りましたけどですね。そういう事が育てられて行くという事が、それがね。
今迄は何とも感じなかった、いえ今迄はほんとに辛い思いをしよるように思いよった事がです、かえって有難うなってくると云うところにです。それがそこまで自分の心が成長した。そこまで自分が育てられたことが有難いのであると云うことです。ですから、信心はそこんところがです、成長してきよらなかったら、貴方は信心の稽古をしとるとじゃないです。こげなおかげを頂いたと、おかげが分かる。
おかげをそれは分かりますけども、それをほんとにおかげと感じさせて頂けるようになったことが有難い。そういう信心、そういう事が信心が育って行くのであり、お育てを頂きよると云うなら、そういう事だと思うです。只、そこんところを、私はいよいよ、もっともっと誰が言うても迷わん、誰が言うても狂わない有難さになっていくことを願いとしての信心になっていかなきゃならんと云う風に思うですね。
どうぞ。